どんこ会とは


どんこ会由来

CEO
昭和40年頃、初代会長松岡隆光(大正14年卒)先輩を中心に数名の有志から、母校卒業生の建築関係業者の親睦を図るため、お互いの語らいの場を設けてはどうかの声が高まり、暫時実行の気運が熟し昭和42年11月会員21名を以て発足の運びとなり、当時の会員は、学生時代校庭の隅にあった「どんこプール」を偲んで会名を「どんこ会」と名付けました。

(どんこ会15周年記念誌・富山武次あいさつより)


どんこプールの物語


蛙のことを、どんこ、あるいは、どんこびっ、と呼ぶ方が私共の年代では、ユーモアがあって親しみやすい。 さて、どんこ会のどんこたる名づけ親は、どなたか知りませんが、母校の「どんこプール」について若い方々の参考に一言申し上げます。正式な呼称が、どんこプールという訳ではありませんが、鹿工卒業生のあいだでは、このプールが創立当時から戦後に姿を消すまで永いあいだ、どんこプールと呼ばれ親しまれてきました。 そのプールのあった場所は、今の屋内運動場の北側あたり、その大きさはたて6米、よこ約25米、側壁は松坂、松杭、深さ1米位の底は素堀といった具合で、運動場も昔はたんぼのあったところ、護国神社よりのポプラ並木のあたりは、年中じめじめしておりました。つまり湿地帯の水を集めるプールであったり、一方、木造の寄宿舎、校舎であったため防火用水でもありました。また、二次的に寄宿舎生にとっては、勿論ないしょの釣り場ともなり、どんこ達のナワ張りでもあった訳です。    
なお、このプール北側どては、松林になっており、冬は暖かく寝そべって雑談するにもってこいのところ,プールにスイスイ走るアメンチャン、どんこ達の遊泳をながめつつ、青春のしばし息抜きの場所でもありました。今一つ、つけ加えますと、私共、昭和10年卒業時には、このどんこプールを正式な水泳プールにするため、プール建設募金として5円也の割当がありました。当時、生徒の学校納金は、授業料を含めて5円だったと思います。この募金はその後、長期間続いて行われ、終戦時には約2千数百円あったと記憶します。そしてこの基金は、当時、ゴツテ先生(原田健男教頭)の英断によって、あの終戦直後の工業会の急務は、会員、卒業生の動静をつかむことが第ーということで、大毎、大朝の全国版に、母校健在なり、卒業生の動静を知らせとの新聞広告がなされたのであります。したがって、基金はこの新聞広告代で、ゼロになったことをお伝えしておきます。
                                   昭和10年建築卒 堀 添 保
 

校章の由来


   
  

どんこ会歴代会長

ページのトップへ戻る